DTP黎明期の話です。
私のプロフィールに・・ 93年 「マッキントッシュによる4色フルデジタルDTPに成功。」・・とあります。「何それ?当たり前ジャン」と石でも飛んできそうな気配がしますのでちょっと説明。
一見たいしたことのないように見えるこの経歴、一般的には意味が分からないかもしれないが、分かる人には分かるのです。その苦労が。・・
DTPとは・・ありていに言えば、Macintosh(Mac)に代表されるパソコンによってプリプレス、つまり印刷機を回す寸前の作業まで行うことで、今では当たり前になっている技術です。
私の自慢は今では当たり前なDTPを93年当時にやったということです。・・
当時を思い起こしてもらいたいのですが、Windows 95などまだ出ておらず・・パソコンといえばPC-98全盛。OSはMS-DOS。ワープロは一太郎 表計算-はロータス1-2-3で決まり。ハードディスクが100メガ4万円。増設メモリは4メガ4万円の時代だったのです。
オフィスでは、PC98ですらあまり理解してもらえずで、OA機器の定番はワープロ。富士通OASISか東芝ルポ、それにNEC文豪だった。あとゼロックスとファクシミリ(^^;)を揃えれば三種の神器そろい踏みとなり、社内でどんなに「アップルだマックがスゲー」とホザイテモ、「何?りんごが食いたい?マクドナルドは駅前だぜ。」とのたまわれ、一笑に付されるのが落ちの時代だったのです。
当時、Macを辛うじて確保してあった広告会社のデザイン部門長でさえ、「ああー、マアーックねえ。あれって写植の機械でしょう?」と言って、物凄い値段で買ったモリサワのTrueTypeフォントをパラパラと見せてくれたものです。
そうです、マックが数台あるデザイン部門でさえ、せいぜいポストスクリプトのレーザープリンターで出力し、写植代の倹約に使っていたことを自慢していた時代です。(笑い)
その時デザイナー氏が使っていたMacは、Ⅱci。
ウインドウの端をつまんで引っ張り、枠の大きさを調整し、十字カーソルでスパスパ線を引く。ファイルを消すのに del *.TXT とか打ち込まず、ゴミ箱の中に摘んで落とすだけ。それで消えると聞いたとき見たときは、たまげた、というか「負けた98」と確信した。その時のデザイナーの手さばきを見て初めてドロップとかドラッグの意味を知ったものです。
とはいってもⅡci・・100万円ぐらいした憎い奴。
CPUはモトローラの68030、メモリーは5メガだったと思う。外付けハードディスクが40Mか100Mどちらだったかは、デザイナーの持ちもんなんで記憶にはありません。わざわざ書いたのはそうです、メモリーもHDもCPUもスペック的に今のパソコンの1/1000だったということを言いたいのですよ。若者諸君。
八王子市内、美味しいラーメン屋さん”グルメマップ”のポスティング企画が来た。
そんな頃に、”ラーメンの街八王子”の、市内の美味しいラーメン屋さんをイラスト地図でマーキング、その周りにラーメン屋さんの枠広告を入れて市内ラーメンマップを作って、それをポスティングしようという企画が舞い込んだ。
きれいなイラストマップは4色。サイズはB3。ドドンとオフセット10万枚印刷である。但し金がない。
金がないのをアイデアで克服してきたことを特技としていた私。(今でもそうだ)そのような時ばかりに仕事が舞い込む。
「そりゃあ Mac しかない」と断言。
「なんだそりゃ、また、りんごか?」と唖然とする周囲。
実は自信がなかった。ただ、それを風の噂で聞いた別事業部のデザイナーのWさんが来てくれて、「こんな感じでどう」と見せられたプリンター出力に感動。実はこの人、社内でデザイナーなのか写植オペレーターなのか分からん宙ぶらりん状態だったようである。
今では何てことない代物かもしれない。
たぶん、ほとんどMacの素材集のイラストを使ったと思う。
素材集にないものはデザイナーがちょいと書いてスキャナーで読んで色付けし、GIFデータを用意。
イラストレーター上で青く浅川を描いて、十文字に国道16号と20号、滝山街道に高尾街道、北野街道に野猿街道をグレーでざっと描いた。・・・それにJRと京王の鉄道線路を入れてベースとする。
後は、八王子駅を中心に、西八王子駅に高尾駅、京王線の各駅と・・高尾山に滝山城址に多摩御陵。八王子市役所と創価大学。後は、自動車、風船、ビル建物等々のかわいいイラスト。・・用意したGIFをぺたぺた貼り付けて出来上がりである。
それをページメーカー上の枠で囲んで40件ぐらいあるラーメン屋さんの広告を入れた上で、住所に応じてピンを立てランドマークとすれば、なんとかっこいい八王子ラーメンマップの完成である。
なまじMacが出来るゆえ、写植屋の真似事を散々させられ凹んでいたデザイナー氏のことを考え、文字データは店名、一言コピー、住所、電話番号をチャント1レコードにしてOASIS専門の派遣社員のお姉さんに職外の98で打ってもらいtxt入稿。
もう忘れてしまったが、そのまま98のフォーマットのフロッピーはMacでは読めない・・1.2Mは全滅。640kの2DDでもだめで、720kバイトで7セクタだかのフォーマットをしたフロッピーにする必要があった。デザイナーからフロッピーが読めない!と連絡があった時、インターネットのない時代、Macの関連書籍を急いで読み漁って調べたものだった。今とは隔世の感がありますね。
私には良く分からなかったが、デザイナーのWさんも良くやってくれたものだと思う。確か見せてもらった画面はゆるんこゆるんこ動いていたように思うし、640×480でB3ではWYSIWYGも何もありはしない。煙突の中から星座を捜すような感じだったのではないかと今では想像する。確認のため全体を縮小しようとすると時計マークが回りっぱなしだったようである。
「ここまでやったらフルデジタルでなければ男が廃る!!」だけどB3のフィルム出力してくれるところはそう易々と見つからなかった。もちろん多摩なんぞにはなく、また調べた挙句で、当時・・てか今でも飯田橋にあり、物凄く立派な会社になった 帆風(バンフー)という出力センターのイメージセッターならB3出力が出来ると調べ上げ入稿。
入稿と言っても””MO””なんて気の利いたものはないわけだから、Wデザイナーが外付けハードディスクを外して持ち込む。今ではネットで入稿するのが当たり前だけど、当時のネット速度は2.4Kbps、パソコン通信の時代でした。
落下させたら高価なハードディスクとフォントもろともアウトであるから、彼は私の申し出を断り、ほかの誰にも触らせず、大事に外付けハードディスクを胸に抱いて入稿した。コピーしたらすぐにお持ち帰りである。
後は出力センター任せであるが、そこでまた問題発生。
どうも枠だけ出て中のイラストが出ない。「エッ何で何で。」と私。聞くと何でも真ん中のイラストレターで作った画像とページメーカーで作った枠がうまくリンクしてないらしい。98ではブイブイ鳴らしていた私、でもMacは門外漢でこの辺はWさんと帆風のお兄さんに任せるしかなかった。
ようやく出るようになったらしい、と言ってもいつまでたってもフィルムは出ない??「エッ何で何で。」とまた私。帆風のお兄さんが言うには、あまりに多いいコンテンツに”ライノ何とか”という外国製のイメージセッターが音を上げているらしい・・とW氏。バグかもしれないし良く分からないとのこと。また待つこと十数時間。そろそろ”やばい”とあせりだした頃、一晩がかりで4枚のフィルムが出力完了。それを今度は私が手で大事に持って、キャノン コンセンサスという色校マシンでゲラ出力。すかさず上司に見せて安心させる。
後はフィルムを業務に入稿して終わりである。
印刷屋さんは刷るだけ(印刷屋さんゴメン)、写植からデザイン、レイアウト、製版までのプリプレスはすべてパソコン。プリプレスの実コストは出力センターに出した確か4万円?と色校1万円だった。
ラーメンマップから数えてもう二十年。パソコンの標準メモリーは4Mから8Gになりました。広告媒体の主流は、紙・電波からインターネットにその主流を譲り渡しつつあります。
今では当たり前のDTPですが、あの時、出力時間及びコスト無視で取り組んでくれた出力センター帆風飯田橋店のお兄さん。写植オペレーターのように扱われ、多分にすねている様に思われたWさん。
DTPとMacの将来を信じて突き進んでいたこの二名の情熱を私は忘れられません。私も含め三名とも進む道は違ってしまいましたが、おそらくどこか・・DTPからハイパーテキスト、インターネットへ、きっとネット界のどこかで活躍しているものと強く信じています。