用紙はA4かB4?|ポスティング広告に最適な版は?

立川市 ポスティング ポスプロ

立川駅前にて

今日はポスティング広告におけるチラシの大きさについて考察します。

ポスティング広告は長い間、折込広告の代用や補完として扱われてきました。
折込広告のサイズは、新聞に折り込みますから、キッチリ綺麗に折込める大きさ、すなわちB4サイズが主流です。

B3とかB2という大きなチラシでも、新聞販売店には、二つ折り四つ折りにしてB4の状態で卸されます。

印刷屋さんも、このB4大の折込チラシを一番効率よく印刷できる四六判の印刷機を大挙導入しました。

ところが、手配りのポスティング業者からすると、B4では大きすぎて配れません。

一昔前、ポスティングでB4チラシを頼む際「折りたたみながら撒いてください」という要望がありました。それもしたことがあるのですが、結局、折りながら・・という工程が増えてしまうので、ポスティングの単価を上げざるを得ません。

また、ペラペラのB4チラシをたたみながら撒くというのは、ポストに綺麗に入りませんし、見栄えも悪い。さらに、大きくてチラシの頭がポストからはみ出てしまう・・はみ出さざるを得ない状況も多々出てしまうことがある。

ポスティングの後、雨が降り、はみ出たチラシが原因で「ポストの中が水浸しになった」他のチラシに合わせて入れたら「チラシがぐしゃぐしゃに入っていた」という苦情がクライアントに入ってしまいます。

そこで弊社は、B4以上の大きさで受注する場合には、折加工を加えることを前提で受注しています。

B4チラシは事前に折加工を加える方が、コスト的にも受取人様の負担、美観からも適しているのです。

時代はA版の時代へ。

時代が流れ、紙媒体が折込広告からポスティング広告にシフトするにつれ、B4大のチラシの納品だと、折加工のコストが加わるというデメリットが浮き上がってしまいました。

それを回避する方法として、折加工をしなくても配れるA4大の納品がポスティング広告の主流になりつつあります。B4上質紙が定番だったリハウスや住友不動産販売の”物件募集チラシ”が、今ではA4に代わりました。これは時代の流れを象徴する出来事だと思います。

ついでにコストで言わせてもらうと、印刷屋さんが持っている印刷機は折込広告に適したB版=四六判の印刷機が主流なので、A4で受注するとわざわざ大きなB4で印刷して、後でA4に断裁するなどコストがかえってかかる場合があった。

A4、つまりは菊版の印刷機が適しているけど、折込広告に特化した印刷業者さんは四六判の印刷機しか持っていない。一時期B4ではなくA4でチラシを同数で頼むと、A4の方が紙量が少ないはずなのに B4より高い見積もりが出ていた、なんて話もしょっちゅう耳にしていました。印刷屋さんがA4の印刷を嫌がっていたんだね。

国際的な紙の大きさの標準はA版。

なぜ日本ではB版が主流になったかというと、江戸時代の公文書や障子の版型が美濃版だったので、それに大きさが合致するのがB版だったからだそう。

私が使っていた頃の教科書やノートはB5サイズでしたが、現在の教科書はA4。
ノートもA4が多くなった。ランドセルが少し大きくなったのは、A4サイズに合わせたからだそうです。

B版を多用していた日本は実は少数派だった。
国際的な標準化の流れとグローバリズムに合わせ、企業のドキュメントもB4からA4に変わりました。

ネット印刷の若い経営者さん達は、この流れを早めにつかんだのかもしれません。
ネット印刷のサイトでは、A4のチラシ・フライヤーの印刷コーナーに直ぐ飛びます。
ウインドウズ10もマックもA4前提で造られているから、PC画面もB4縦置きドキュメントよりA4の方が見やすいような気がします。

しかしながら、「B4とA4では基本的に情報量が違う・・やっぱりB4で・・」という意見も強い。既成のイメージが強いのか、不動産の販売チラシはやはりB4、B3が多い。

ポスティング屋的には、B4は折らなければ配れないので、折られるのを前提としてデザインしてください・・また、ポスティングは明るい太陽光の下で初見になるので、透け過ぎない60k以上の紙を使ってくださいと言うしかありませんが。

ポスティング広告に適した版は?

ここまでA版をさんざんもち上げましたが、ポスティング屋的にはA4も問題がないわけではありません。

今はやりのネット印刷の業者にA4を頼むと、ほぼデファクトで90kのコート紙で納入されます。この中厚のコート紙、意外に曲者で、ポスティングすると静電気と印刷のインクでくっ付いてしまうのですよ。配達員は1日数千枚配るのですが、くっ付いていてそれを剥がすのに手間取り、しまいには指の腱鞘炎?になってしまうのです。

B4の場合なら、折加工を加えた後なので、隙間に空気が入っていて、くっ付いて配りにくいということはありません。

じゃあ、あまりにもくっ付いているA4も折り機にかければということになりますが、見た目かなり小さくなり ますから得策とは言えません。

あまりにもくっ付きすぎるA4は、腱鞘炎対策で配達員が自分で折る場合がありますからご注意を。

折らなくても直ぐ摘まめるA4の紙と言えば、コートのない上質紙、または、あまりくっ付かないマット系のコート紙を使うと良いのではないでしょうか?これならポスティング業者がわざわざ折って配るということも少なくなるでしょう。

B4はそのまま配るということはないので、折加工前提でデザインを考えておけば良いのでは。

筆者お勧めは、A3の二つ折り。パンフレットA4の見開きにしてポスティングするのです。A4三連の観音開きも良いでしょうね。

情報量と高級感がグッと増したポスティングチラシが出来上がります。

93年DTP!4色10万枚-八王子ラーメンマップを作れ

Ⅱc

Apple Ⅱci (100万円ぐらいした憎い奴 )

DTP黎明期の話です。

私のプロフィールに・・ 93年 「マッキントッシュによる4色フルデジタルDTPに成功。」・・とあります。「何それ?当たり前ジャン」と石でも飛んできそうな気配がしますのでちょっと説明。

一見たいしたことのないように見えるこの経歴、一般的には意味が分からないかもしれないが、分かる人には分かるのです。その苦労が。・・

DTPとは・・ありていに言えば、Macintosh(Mac)に代表されるパソコンによってプリプレス、つまり印刷機を回す寸前の作業まで行うことで、今では当たり前になっている技術です。
私の自慢は今では当たり前なDTPを93年当時にやったということです。・・

当時を思い起こしてもらいたいのですが、Windows 95などまだ出ておらず・・パソコンといえばPC-98全盛。OSはMS-DOS。ワープロは一太郎 表計算-はロータス1-2-3で決まり。ハードディスクが100メガ4万円。増設メモリは4メガ4万円の時代だったのです。

オフィスでは、PC98ですらあまり理解してもらえずで、OA機器の定番はワープロ。富士通OASISか東芝ルポ、それにNEC文豪だった。あとゼロックスとファクシミリ(^^;)を揃えれば三種の神器そろい踏みとなり、社内でどんなに「アップルだマックがスゲー」とホザイテモ、「何?りんごが食いたい?マクドナルドは駅前だぜ。」とのたまわれ、一笑に付されるのが落ちの時代だったのです。

当時、Macを辛うじて確保してあった広告会社のデザイン部門長でさえ、「ああー、マアーックねえ。あれって写植の機械でしょう?」と言って、物凄い値段で買ったモリサワのTrueTypeフォントをパラパラと見せてくれたものです。 

そうです、マックが数台あるデザイン部門でさえ、せいぜいポストスクリプトのレーザープリンターで出力し、写植代の倹約に使っていたことを自慢していた時代です。(笑い)

MS-DOSバナー

MS-DOSの起動画面、ウインドウズで言えばデスクトップにあたります。

その時デザイナー氏が使っていたMacは、Ⅱci。

ウインドウの端をつまんで引っ張り、枠の大きさを調整し、十字カーソルでスパスパ線を引く。ファイルを消すのに del *.TXT とか打ち込まず、ゴミ箱の中に摘んで落とすだけ。それで消えると聞いたとき見たときは、たまげた、というか「負けた98」と確信した。その時のデザイナーの手さばきを見て初めてドロップとかドラッグの意味を知ったものです。

とはいってもⅡci・・100万円ぐらいした憎い奴。
CPUはモトローラの68030、メモリーは5メガだったと思う。外付けハードディスクが40Mか100Mどちらだったかは、デザイナーの持ちもんなんで記憶にはありません。わざわざ書いたのはそうです、メモリーもHDもCPUもスペック的に今のパソコンの1/1000だったということを言いたいのですよ。若者諸君。

八王子市内、美味しいラーメン屋さん”グルメマップ”のポスティング企画が来た。

そんな頃に、”ラーメンの街八王子”の、市内の美味しいラーメン屋さんをイラスト地図でマーキング、その周りにラーメン屋さんの枠広告を入れて市内ラーメンマップを作って、それをポスティングしようという企画が舞い込んだ。

きれいなイラストマップは4色。サイズはB3。ドドンとオフセット10万枚印刷である。但し金がない。

金がないのをアイデアで克服してきたことを特技としていた私。(今でもそうだ)そのような時ばかりに仕事が舞い込む。

「そりゃあ Mac しかない」と断言。
「なんだそりゃ、また、りんごか?」と唖然とする周囲。
実は自信がなかった。ただ、それを風の噂で聞いた別事業部のデザイナーのWさんが来てくれて、「こんな感じでどう」と見せられたプリンター出力に感動。実はこの人、社内でデザイナーなのか写植オペレーターなのか分からん宙ぶらりん状態だったようである。

今では何てことない代物かもしれない。
たぶん、ほとんどMacの素材集のイラストを使ったと思う。
素材集にないものはデザイナーがちょいと書いてスキャナーで読んで色付けし、GIFデータを用意。

イラストレーター上で青く浅川を描いて、十文字に国道16号と20号、滝山街道に高尾街道、北野街道に野猿街道をグレーでざっと描いた。・・・それにJRと京王の鉄道線路を入れてベースとする。

後は、八王子駅を中心に、西八王子駅に高尾駅、京王線の各駅と・・高尾山に滝山城址に多摩御陵。八王子市役所と創価大学。後は、自動車、風船、ビル建物等々のかわいいイラスト。・・用意したGIFをぺたぺた貼り付けて出来上がりである。

それをページメーカー上の枠で囲んで40件ぐらいあるラーメン屋さんの広告を入れた上で、住所に応じてピンを立てランドマークとすれば、なんとかっこいい八王子ラーメンマップの完成である。

なまじMacが出来るゆえ、写植屋の真似事を散々させられ凹んでいたデザイナー氏のことを考え、文字データは店名、一言コピー、住所、電話番号をチャント1レコードにしてOASIS専門の派遣社員のお姉さんに職外の98で打ってもらいtxt入稿。

もう忘れてしまったが、そのまま98のフォーマットのフロッピーはMacでは読めない・・1.2Mは全滅。640kの2DDでもだめで、720kバイトで7セクタだかのフォーマットをしたフロッピーにする必要があった。デザイナーからフロッピーが読めない!と連絡があった時、インターネットのない時代、Macの関連書籍を急いで読み漁って調べたものだった。今とは隔世の感がありますね。

私には良く分からなかったが、デザイナーのWさんも良くやってくれたものだと思う。確か見せてもらった画面はゆるんこゆるんこ動いていたように思うし、640×480でB3ではWYSIWYGも何もありはしない。煙突の中から星座を捜すような感じだったのではないかと今では想像する。確認のため全体を縮小しようとすると時計マークが回りっぱなしだったようである。

1990年代PC環境

「ここまでやったらフルデジタルでなければ男が廃る!!」だけどB3のフィルム出力してくれるところはそう易々と見つからなかった。もちろん多摩なんぞにはなく、また調べた挙句で、当時・・てか今でも飯田橋にあり、物凄く立派な会社になった 帆風(バンフー)という出力センターのイメージセッターならB3出力が出来ると調べ上げ入稿。

入稿と言っても””MO””なんて気の利いたものはないわけだから、Wデザイナーが外付けハードディスクを外して持ち込む。今ではネットで入稿するのが当たり前だけど、当時のネット速度は2.4Kbps、パソコン通信の時代でした。

落下させたら高価なハードディスクとフォントもろともアウトであるから、彼は私の申し出を断り、ほかの誰にも触らせず、大事に外付けハードディスクを胸に抱いて入稿した。コピーしたらすぐにお持ち帰りである。

後は出力センター任せであるが、そこでまた問題発生。
どうも枠だけ出て中のイラストが出ない。「エッ何で何で。」と私。聞くと何でも真ん中のイラストレターで作った画像とページメーカーで作った枠がうまくリンクしてないらしい。98ではブイブイ鳴らしていた私、でもMacは門外漢でこの辺はWさんと帆風のお兄さんに任せるしかなかった。

ようやく出るようになったらしい、と言ってもいつまでたってもフィルムは出ない??「エッ何で何で。」とまた私。帆風のお兄さんが言うには、あまりに多いいコンテンツに”ライノ何とか”という外国製のイメージセッターが音を上げているらしい・・とW氏。バグかもしれないし良く分からないとのこと。また待つこと十数時間。そろそろ”やばい”とあせりだした頃、一晩がかりで4枚のフィルムが出力完了。それを今度は私が手で大事に持って、キャノン コンセンサスという色校マシンでゲラ出力。すかさず上司に見せて安心させる。
後はフィルムを業務に入稿して終わりである。

印刷屋さんは刷るだけ(印刷屋さんゴメン)、写植からデザイン、レイアウト、製版までのプリプレスはすべてパソコン。プリプレスの実コストは出力センターに出した確か4万円?と色校1万円だった。

ラーメンマップから数えてもう二十年。パソコンの標準メモリーは4Mから8Gになりました。広告媒体の主流は、紙・電波からインターネットにその主流を譲り渡しつつあります。

ばんふうのお兄さん風のバナー

今では当たり前のDTPですが、あの時、出力時間及びコスト無視で取り組んでくれた出力センター帆風飯田橋店のお兄さん。写植オペレーターのように扱われ、多分にすねている様に思われたWさん。

DTPとMacの将来を信じて突き進んでいたこの二名の情熱を私は忘れられません。私も含め三名とも進む道は違ってしまいましたが、おそらくどこか・・DTPからハイパーテキスト、インターネットへ、きっとネット界のどこかで活躍しているものと強く信じています。